進撃の巨人 最終話感想

同時掲載されているベストセレクションの話数が今見てもすごく面白くて、
相対的に「後半の話ってやっぱ面白くなかったな……」と再確認させられました。

「過去の話なんて今更見る必要もないな」って思ってたのに、目がページに吸い寄せられて、結局1ページ1ページじっくり読み進めてしまった。
最終話にはそういうの全く無かったですハイ。


全体を通した視点でも思う所は色々あるんだけど、とりあえず最終話について思った事を書こうと思います。


・エレンの思惑

結局、二転三転しましたがエレンの本当の思惑は最終回でようやく明かされました。

……が、その内容が結局読者が真っ先に考えるような内容(自分を犠牲にして仲間たちを守る)でしかありませんでした。

進撃の巨人後半はエレンが何を考えているのかが徹底的に伏せられていて、エレンが何を考えているのか分からない、そしてアルミン達もエレンの真意が分からないせいで行動指針を決められず右往左往。
そのせいで感情移入出来る対象がおらず、『主人公不在』の状況が延々続いていました。

進撃の巨人の後半の一番の問題点ってここだと思うんですが、エレンの真意が大したことのない内容だったため、エレンの真意をここまでひた隠しにする必要あった?って疑問に思います。

もちろん、このプロットだとエレンが何を考えているのかは最後まで分からない、という構成にしなくちゃいけないのは分かるんですけど、読者の感情移入対象を廃してまでやるべきプロットだったのこれ?
そもそものプロット構築の時点で間違えているような……


・未来視でたどり着いた結果

エレンは未来視によって巨人の力が消える未来を見ており、それを達成させるために今までの行いがあったのでした。

これを見て私は「今までの話一体なんだったんだよ……」って思いました。
なんかね、今まで登場人物が苦労してた事とか、払った犠牲とかも全部予定通りでしかなかったんだなと。

「決められた運命、定められた未来」っていうのは色んな作品で取り上げられる題材な訳ですが、基本的に「決められた未来なんて変えてやる!」って流れになります。

これって「親に決められたレールの上なんて嫌だ」というような話とも繋がるテーマだと思うのですが、誰かに決められた通りにしか行動出来ないのであれば、自分の意思は何のためにあるのか、自分が自分である意味はあるのかという、アイデンティティに関わる問題で、だからこそ色んな作品で描かれる内容だと思うわけです。

特に進撃の巨人なんて「自由」をテーマにした作品だったのに、『未来は最初から決まっていた』って最終回で言われて、作品全体を運命が支配してるのが明らかになるのって、あんまりにもあんまりじゃないですか?

(決めたのはエレンだけど、エレンは未来視の影響で自我の領域が曖昧になっていたので、「自分の意志で決めた」という形になっていない)


「自由を誰よりも求めたエレンが、実際は運命の奴隷だった」というような皮肉は一応描かれてますけど、なんかこれもイマイチ作品の中で活きてないですよね。

「今まで苦しかったんだね」とかアルミンに言われてましたけど、エレンの心情がひた隠しにされてたせいでそのエレンの苦しみを読者はあんまり感じられないし、「未来が視えるのであれば、他に方法があったのでは?」というような疑問も、漫画内で描かれないので解消されない。(よく言われる単行本の表紙がパラレル、って考察がそれなんだろうけど、変に裏設定を固めてるせいで作品内でそれを活用できなくなってる)


そして、結局作中で詳しい説明がなかったので良くわからないんだけど、前回のラストと今回の話を踏まえて考えると、「ミカサがエレンへの愛を貫くのを見て始祖ユミルが満足した結果、巨人化が消えた」という風にしか見えないんですけど……愛の呪いとか言うけど、巨人の力ってユミルの気持ち次第のものだったのかよとか、今までの死闘ってユミルにあの結末を見せるための茶番だったの? とか色々もやもやが生まれてきます。

というか、ユミルがあの結末でないと満足出来ないせいで、未来視に支配されてやりたくない事やらされて死ぬ結果になったんだとしたら、エレンは真っ先にユミルに対して怒りをぶつけるべきなのでは?



・エレンとミカサのラブストーリー(笑)

前回の時点でなんだこりゃ?って思ったんだけど、最終回ではそのミカサの行動が重要だとかいう話になってて、なんか良くわかりませんがミカサとエレンのラブストーリーみたいな感じで話が締めくくられました。

進撃の巨人ってそういう話でしたっけ?(笑)

いや百歩譲ってラブストーリーなのはいいけど、ミカサはねえよ。
ミカサって全編通してエレンエレン言い続けるだけの戦闘マシーンで、戦闘要員としては優秀だけどキャラとしての掘り下げは物凄く浅い。
初期メンバーなので読者としては愛着はあるけれども、キャラとしての魅力はぶっちゃけほとんどないんですよね。

そんなミカサを最後の最後で中心人物にして、しかも恋愛ストーリーとして締めようとしてるのを見て、「作者おかしくなったのか!?」って思いました。

そもそも、ミカサがエレンに依存してるのは明らかだとしても、それって男女の恋愛というような話だったのか?っていうのが疑問。
まあアニとかヒストリアに嫉妬する場面もあったけど、別にただの依存対象であったとしても嫉妬はするだろうし。

エレンに依存しきっている、っていうのがミカサのキャラとしての狭さの一番の原因なんで、エレンに罵倒されて自分の気持ちに迷いが生まれる、っていうのは、ミカサっていうキャラが変化するためのいいきっかけだったと思っていて、「ようやくミカサにもスポットが当たるのか」と思ってたんですけど、結局大した変化もなく「やっぱりエレンの事を忘れるなんて出来ない」って元の鞘に収まりました。なんだったんだろうこの話。

恋愛ストーリーにしてもそういう心情をちゃんと描いてくれれば感じ方は全然違ったんでしょうけど、最後の最後でいきなりそんな話されてもね。



・殺戮者になってくれてありがとう

地ならし発動後のアルミン達の行動の動機って、「人類を虐殺するなんて許される行為ではない」というものだったと思うんですけど、仮にもそういう動機で動いてた人間が、虐殺を肯定するような事言っちゃ駄目でしょ……

「8割方殺してるなら残り2割殺すのも変わらんやろ」みたいなコメントも見かけたけど、なんか最終的に「全滅させてないから虐殺も方法論としては許される」みたいな空気になってるのが理解できない。

「僕たちを守るために人類を8割殺すという大罪を背負ってくれた」という行為に対して「ありがとう」が言えるのであれば、「島を守るために外の世界を全滅させてくれる」という事に対して抵抗を感じて止めようとはしないんじゃないの?

なんか、最終的にこういうオチになるのが決まってたから、エレンを止めようとするアルミン達の動機付けを曖昧にしてたんじゃないか?
って邪推が働いてしまうんですけども。


エレンとアルミンは始祖の力を使って精神世界で昔と同じように語らい合う訳ですが、それを見て「ああ、色々あったけどエレンやアルミンは仲良しのままなんだ」というような微笑ましい気持ちではなく、「なんかキモいなこいつら」って感想が出てくるのは、エレン達3人って「外の世界」に出るのがそもそもの目標で、現実の世界ではエレンの行いで人類が大虐殺に遭ったりしてるのに、そういった外の世界に視野を向けず、「エレン、アルミン、ミカサの仲良し3人組の中だけで関係性が閉じてしまってる」のを感じるからなんですよね。

ミカサは論外として、エレンなんかも虐殺する人々に対して涙ながらに謝ったりしてましたけど、今回の様子を見るに、本質的に外の世界の人たちなんてどうでもいいと思ってそうだなと感じます。
まあエレンは「外の世界で人が生きてるのを知ってがっかりした」とか言ってたので、本当に身内以外はどうでもいいんだろうなとは思いますが。

『外の社会と相対した時の難しさ』を後半の話の主軸にしてた割に、外の世界がどうでもよく身内の中だけで関係性を閉じようとする3人を主人公にしていたのは失敗だと思います(進撃の巨人の後半は、こういう「やろうとしている事とそれを描く上でやってる事の矛盾」がやたらと多く感じる)。
アルミンがアニに惚れてる描写が出たのに対し、「頭ベルトルト」とか言われてましたけど、関係性を広げようとしてる分アルミンはまだまともなんだと思います。


最終回の描写やエレンとアルミンの会話が気持ち悪く思えるもう一つの大きな理由として、進撃の巨人って、巨人に対して無力に蹂躙されるだけの人間の怒りだとか、それに抗う意思なんかを描いてきた訳ですけど、その構図を逆転させて、「エレンが地ならしで無力な人間たちを虐殺する」という展開になった結果、「主人公のエレンに虐殺されるのはただのモブだからどうでもいいよね」みたいな構図が生まれてしまってる所です。

物語っていうのは特定の登場人物に焦点をあて、それに感情移入して見るというのが普通で、それ以外の人物は脇役かモブであり、はっきり言えばどうでもいい存在です(嫌な言い方だが、主人公がはっきりしない作品って焦点がぶれててとてつもなく見づらい内容になるので、これは一種の方法論なんです)。

進撃の巨人において、『主人公』であるはずのエレンがほとんどピーチ姫でろくな活躍シーンが無かったりするのを見ると、作者の諫山創さんは「主人公は特別で、それ以外は脇役」というような作りを嫌ってるんだと思います。

しかし、王道的な構図を逆転させた結果、その「主人公は特別で、それ以外はどうでもいい脇役」っていう作品を作る上での構図が、最悪な形ではっきりと表に出てきてしまってると思います。

「全人類の8割」っていう、犠牲者がただの数字になっちゃってるんですよね。
色んな人の営みがあって、虐殺される側の苦しみとか悲しみとか怒りとか色々あるはずなんだけど、「地ならし」という力によって「犠牲者」という平坦な情報に潰されてしまっている。
一応、以前のエレンが犠牲者にごめんなさいを言う回でそういう所を描こうとしてるんだと思うけど、最終回で「そうなっちまうもんはもうしょうがないよね」みたいな空気になってるのを見せられると、それも言い訳がましく感じるというか……言うだけなら簡単だよなっていう。

エレンの地ならしに対して、かつてのエレンと同じように怒りと共に立ち上がる誰かの姿、みたいなものを対比として見せないとフェアじゃないんじゃないかなあ。

結局、色々申し訳ない気持ちをエレンは言ってるけど、エレンはあそこで死んでしまう訳で、地ならしの被害に遭った人たちの感情の行き場がなくなってるのも酷いよね。
抵抗勢力を立ち上げた張本人のくせに、指揮官としての立場を放棄して死にに行ったハンジさんも酷いけど、エレンについても「死んで責任逃れすんなよ」って言いたくなる。

 

 


まあ最終回で感じた所はこんな感じですね。
他にも、「進撃の巨人で死者の霊的なもの出すなよ」みたいなのもありますが。

進撃の巨人って、「世界は残酷だ」っていうテーマ性と、少年漫画として「エンタメ性」の間で常に揺れ動いていた印象で、マーレ編以降は、「どう足掻いてもエンタメとしては成立しないテーマ」を持ち込んだ結果、まあ予想通りに収めどころが無くなって無茶苦茶になった、っていう印象です。

 

自分はハッピーエンドが大好きな人間ですけど、進撃の巨人に関しては、地ならしを始めた段階で、もうバッドエンドに舵を切る以外の道って無くなってたんじゃないかなあと思います。